日本の医薬品供給は、2023年時点で76%が海外に依存し、バイオ医薬品の自給率は2021年時点でわずか14%でした。韓国は2025年に約25兆ウォン規模の「バイオグレート変革戦略」を発足させ、台湾は半導体の成功体験を土台に「バイオ版TSMC」と呼ばれる国策CDMOの育成を進め、中国は1990年代からバイオ医薬品の産業集積を築いてきました。海外が先に動いた後を追う形で、日本は2026年7月21日の「日本成長戦略」で、成長17分野の一つに「合成生物学・バイオ」を置き、2040年度までに33.6兆円の官民投資を見込むロードマップを示しました。号令だけでは動きません。実際に何が受注され、どの企業が投資を決め、どこにGMPという壁があるのかを、一次資料で追います。
海外依存76%——2023年、医薬品供給はここまで海外に頼っていた
2026年1月21日、内閣府の創薬・先端医療ワーキンググループ第1回に、製薬協会長(当時、武田薬品工業ジャパンファーマビジネスユニットプレジデント)の宮柱明日香氏が提出した資料は、日本の医薬品供給の海外依存度を数字で示しました。2023年時点で、日本国内の医薬品供給12.4兆円のうち、海外に依存する部分(輸入生産6.0兆円+最終製品輸入3.4兆円)は76%。国産は3.0兆円、24%にとどまります。バイオ医薬品に絞るとさらに低く、2021年時点の国内需要約2.2兆円に対し国内生産額は約0.3兆円——自給率にして約14%です。同じ資料は、2025年12月時点のバイオ医薬品製造能力(容量ベース)について、韓国が日本の約13倍に達し、日本の生産能力を合算しても韓国・中国の主要CDMO1社分に届かないことも示しています。
12.8兆円と20.8兆円——合成生物学・バイオに並ぶ2つの投資額、合計33.6兆円
2026年7月21日に閣議決定された「日本成長戦略」に付随する「戦略17分野における『主要な製品・技術等』の官民投資ロードマップ」は、17分野の10番目に「合成生物学・バイオ」を置きました。この分野には2つの項目が並びます。①バイオものづくりと、②バイオ医薬品・再生医療等製品等です。②は「創薬・先端医療」分野の項目とも重複指定されており、同じ投資額が両分野の合計に数えられています。62の主要な製品・技術等は「商用化・量産化」「実証」「研究開発」の3段階で時間軸を管理する設計ですが、同じ分野名の下にあっても、①と②が置かれている段階はまったく異なります。
| 主要な製品・技術等 | 官民投資額(2040年度まで) | 経済波及効果(想定) | 2040年度売上目標 |
|---|---|---|---|
| ①バイオものづくり | 12.8兆円 | 66.7兆円 | 11.9兆円(グローバルシェア10%) |
| ②バイオ医薬品・再生医療等製品等 | 20.8兆円 | 174.9兆円 | 33.4兆円(グローバルシェア10%) |
出典:内閣官房「戦略17分野における『主要な製品・技術等』の官民投資ロードマップ」および同「参考資料」(2026年7月21日)。
バイオものづくりが「実証段階」を出られない理由——発酵の強みとコストの壁
①バイオものづくりの現状認識を文書本体で見ると、楽観的ではありません。「技術・ノウハウ・データが分散しており生産効率が低い」「既存製品との厳しい価格競争にさらされる中、安定した需要の見通しが不十分」「技術・サプライチェーンが発展途上であり、既存製品と比べて生産コストが高い」——これが政府文書が自ら認める課題です。強みとして名指しされているのは、発酵産業の蓄積とエンジニアリング・機器分野の技術で、微生物や細胞を培養・発酵させる「ウェット」領域の成熟度が国際競争力を左右するとされています。CO2等の未利用資源を原料とする技術(水素酸化細菌等)では他国をリードするという記述もありますが、政策パッケージの中心は公的な受託ファウンドリの設置や設備投資リスクの低減(CAPEX・OPEX支援)であり、需要創出も人工ゴム・人工綿のような新用途の開拓や国産SAF(持続可能な航空燃料)の官公需調達といった、まだ実証段階の取り組みが中心です。
iPS細胞とADCの技術はある、製造実績がない——バイオ医薬品が抱える現在地
②バイオ医薬品・再生医療等製品等は、①とは対照的な課題を抱えます。ロードマップは「iPS細胞製品や抗体薬物複合体(ADC)等の技術基盤や、製造技術などの我が国の強みを活かし」た市場獲得を「勝ち筋」に掲げ、世界トップシェアのバイオ医薬品やノーベル生理学・医学賞につながった基盤技術が日本発で生まれていることを現状認識として明記します。技術のシーズは足りていません。足りていないのは製造の実績です。文書自身が「新規製造拠点(CDMO等)の製造実績未確立による受注不確実性」を不確実性要因の1つに挙げ、「大規模製造拠点の維持コストが膨大」「随時利用可能なバイオリソース供給体制の不足」をリソース制約として並べています。②の勝ち筋は、研究開発ではなく「海外で製造されているバイオ医薬品・再生医療等製品等を国内製造へ切替える」危機管理投資に置かれています。①が実証段階、②が量産化の入口という、同じ分野名の下でまったく違うフェーズにある2つの項目——これが「合成生物学・バイオ」を読むときにまず整理すべき構造です。
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澁谷工業、受注高10.4%増——「無菌注射製剤」需要が動かした2026年6月期
この「量産化の入口」に立つ企業に、実際に何が起きているか。裾野産業の受注動向を一次資料(決算資料)で確認できる代表例が、包装・製薬プラント大手の澁谷工業です。2026年8月18日に開示された2026年6月期(2025年7月〜2026年6月)決算説明資料によると、連結の受注高は前期比10.4%増加しました。主力のパッケージングプラント事業(食品用・薬品化粧品用プラントを含む)の受注高は同5.2%増です。会社は医薬品市場の見通しについて「難病治療の無菌注射製剤の新薬開発の増加に加え、バイオ関連産業の育成や医薬品の安定供給を目的とした、国や自治体による補助金制度が活発であり、積極的な設備投資の継続が見込まれる」と説明しています。同期の連結売上高は1,356億円(前期比5.1%増)で過去最高を更新しました。バイオ医薬品の製造拠点整備という政策のうねりが、装置メーカーの受注という具体的な数字に変換され始めています。
タイMEDEZE社への自動細胞培養システム——中堅機械メーカーが選んだ入り方
澁谷工業が同じ決算資料で示した新事業創出の中身も具体的です。「ロットによる変動が大きく自動化が難しいとされる『自家細胞』を『無人運転』で『大量生産』可能な世界初のシステム」とする自家細胞バンク向け自動細胞培養システムを開発し、タイの再生医療企業MEDEZE社向けの受注案件を2026年内に立ち上げる予定だと明らかにしています。この製品は、飲料のボトリング事業で培った無菌充填・自動化の技術を、細胞培養という別の用途に転用したものです。中堅の機械メーカーがバイオ医薬品市場に入る現実的な経路は、必ずしも自ら製薬企業やCDMOになることではありません。既存の得意技術(この場合は無菌充填とロボティクス)を、培養・充填という工程の「装置」として供給する側に立つことです。会社は今後、細胞バンク事業を展開するユーザーへの拡販に加え、細胞の大量製造を目指すユーザーへの拡販も図るとしています。
味の素コージンバイオと関東化学——培地・試薬メーカーがGMPに踏み出した理由
装置よりもさらに裾野に近いのが、培地・試薬メーカーです。味の素は2018年6月、細胞培養用培地の大手コージンバイオと合弁で味の素コージンバイオを設立し、味の素のアミノ酸技術とコージンバイオの液体培地生産技術を組み合わせ、GMP準拠のもとで細胞治療・バイオ医薬品向けの液体培地・バッファーを受託製造する体制を構築しました。試薬メーカーの関東化学も、神奈川県伊勢原市の工場内に2020年11月竣工したiLIS棟で、臨床研究・再生医療等製品向けの培地製造サービスを開始しています。ISO9001品質マネジメントシステムのもと、製造用水には自社製の注射用水(WFI)グレードの水を使い、アクセス制限バリアシステム(RABS)による無菌自動充填にも対応します。どちらも、従来の試薬・培地事業の設備投資に、医薬品品質を保証する仕組み(製造管理・品質管理体系、WFIグレード水、無菌区画)を積み重ねる形でGMP対応に踏み出しています。
DQ・IQ・OQ・PQ——GMP対応で中小部材メーカーが最初に越える4つの関門
中小の部材・試薬メーカーが同じ道を歩もうとすると、最初に立ちはだかるのが設備バリデーションです。厚生労働省令のGMP(製造管理及び品質管理の基準)は、設備を導入するだけでは満たせません。設計時点で要求仕様を満たしているかを確認するDQ(設計時適格性評価)、据付が仕様どおりかを確認するIQ(据付時適格性評価)、単体で意図どおり動くかを確認するOQ(運転時適格性評価)、実際の製造条件で狙った性能が出るかを確認するPQ(性能適格性評価)——この4段階を経て、さらにプロセスバリデーションへ進みます。記録の同時性・修正ルール・電子記録の監査証跡(データインテグリティの原則)まで整備しなければ、査察では指摘対象になります。設備導入時の初期費用だけでなく、年次点検や再バリデーションという継続コストも発生するため、専任の品質保証担当を置けない中小企業にとっては、外部のGMPコンサルタントや、すでにGMP対応を済ませたCDMO・培地メーカーとの提携が現実的な入り口になります。
中小部材・試薬メーカーが参入前に確認する3点 ①自社の設備カテゴリ(充填機・混合機・滅菌器等)でGMP査察対応の実績を持つ外部機関があるか ②DQ・IQ・OQ・PQのうちどこまでを自社で担い、どこを委託するかの切り分けができているか ③GMP対応済みのCDMO・培地メーカーと連携し、まず「部材の供給者」として実績を作れるか
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富士フイルム600億円、AGC500億円——2023〜2027年に集中したCDMO新設
部材の先にある製造拠点そのものへの投資も、同じ時期に集中しています。富士フイルムは2025年12月23日、子会社の富士フイルム富山化学(富山市)の敷地内に、国内最大級となるバイオ医薬品CDMO工場を竣工しました。動物細胞培養タンク(5,000リットル×2基、2,000リットル×2基)を備え、抗体医薬品を中心に2027年の稼働開始を予定します。隣接して建設中のもう1棟(mRNA医薬品等を製造)と合わせた投資額は約600億円で、経済産業省のワクチン製造設備導入を後押しする事業の採択も受けています。AGCは2023年12月21日、横浜市鶴見区のAGC横浜テクニカルセンターでバイオ医薬品CDMOの開発・製造能力を拡大すると発表しました。投資額は約500億円で、国内CDMOとしては最大級の動物細胞培養槽を導入し、2025年に遺伝子・細胞治療薬の開発サービスを先行開始、2026年からmRNA医薬品等の開発・製造サービスを始めます。この投資は、2022年10月に採択が発表された経済産業省の「ワクチン生産体制強化のためのバイオ医薬品製造拠点等整備事業」の一環です。
| 企業(拠点) | 投資額 | 発表・決定時点 | 稼働・サービス開始 |
|---|---|---|---|
| 富士フイルム(富山) | 約600億円(隣接工場含む) | 竣工2025年12月23日 | 2027年 |
| AGC(横浜) | 約500億円 | 決定発表2023年12月21日 | 既存施設2025年/新施設2026年 |
| S-RACMO(大阪) | 新たに約150億円 | 第3棟竣工発表2025年8月5日 | 第3棟稼働済、第4棟新設予定 |
経産省383億円、採択13件——「製造実績」を審査基準に置いた補助金設計
これらの民間投資を後押ししてきたのが、経済産業省の「再生・細胞医療・遺伝子治療製造設備投資支援事業費補助金」です。令和6年度補正予算を財源に、2025年7月15日に13件の採択事業者を公表し、4年間(令和6年度〜令和9年度)で総額383億円を充てます。この補助金の設計が示唆的です。申請枠は2つに分かれます。「通常枠」は再生医療等製品のGMP・GCTP査察証明か、それに準じる受託製造の契約実績・製造業許可を持つ企業が対象で、S-RACMO、サイトファクト、JCRファーマなど6社が採択されました。もう一方の「新技術導入促進枠」は、GMP・GCTP準拠の製造実績が無くてもよい代わりに、事業計画に必要不可欠な特許(物質・用途・製剤・製法・製造環境構築等)を保有していることが条件になります。IDファーマ、アステラス製薬、ヘリオスなど7社がこの枠で採択されましたが、その中には、GMP製造基盤を持つ太陽ファルマテックが、独自技術を持つシンプロジェン・ユー・メディコと連携して製造機能を分担する案件も含まれていました。「実績が無い側」も、単独では通りにくい設計になっています。
合成生物学・バイオ/CDMO投資・要点数値
33.6兆円 合成生物学・バイオの官民投資額(2040年度まで、①12.8兆円+②20.8兆円)|14% バイオ医薬品の自給率(2021年時点)|383億円 経産省・再生CDMO補助金の総額(13件採択、2025年7月15日)|10.4%増 澁谷工業の受注高(2026年6月期、前期比)
リソース制約と不確実性——「勝ち筋」の文書に書かれた、まだ足りないもの
ロードマップは楽観だけでは書かれていません。②バイオ医薬品・再生医療等製品等の項目では、「人材:バイオ人材、実用化への橋渡し人材、海外VCなどステークホルダーが不足」「資金:創薬ベンチャーによる開発に必要なリスクマネー供給が不足」という2つのリソース制約を明記し、「感染症危機の備えと平時稼働率とのギャップ」「物価高や資材高騰によるコスト増」まで不確実性要因として並べています。中小の部材・試薬メーカーがこの分野に入るとすれば、当面の現実的な接点は3つに絞られます。第一に、澁谷工業や味の素コージンバイオのように、既存の技術(装置・培地・試薬)にGMP対応という一段を足して、大手CDMOやCDMO予定企業の供給網に入ること。第二に、太陽ファルマテックの連携案件のように、GMP実績を持つ企業と組み、自社の特許・技術で「新技術導入促進枠」のような制度に乗ること。第三に、まず部材の供給者として実績を積み、製造受託そのものへの参入は後から判断することです。「危機管理投資」という看板の下で進む製造基盤強化は、当事者企業だけの話ではありません。
よくある質問
Q. 合成生物学・バイオ分野の投資額33.6兆円は、政府の予算ですか?
予算ではありません。バイオものづくり12.8兆円とバイオ医薬品・再生医療等製品等20.8兆円は、いずれも2040年度までの官民合計の投資見込みで、政府が配る金額ではありません。後者は「創薬・先端医療」分野とも重複計上されています。
Q. 日本のバイオ医薬品の自給率はどのくらいですか?
2021年時点で約14%です。国内需要約2.2兆円に対し、国内生産額は約0.3兆円にとどまります(内閣府創薬・先端医療ワーキンググループ提出資料、2026年1月21日)。
Q. 中小の部材・試薬メーカーが医薬品の受託製造(CDMO)に直接参入することは可能ですか?
経済産業省の再生CDMO補助金の採択企業は大企業が中心です。GMP・GCTP準拠の製造実績を単独で示せない企業向けには、独自の特許を要件とする「新技術導入促進枠」が用意されています。まずは部材・培地・試薬の供給者としてGMP対応の実績を作り、製造受託そのものは後から検討するのが現実的な順序です。
Q. バイオリアクターや培地の国内メーカーの受注は、なぜ増えているのですか?
政府がバイオ医薬品・再生医療等製品等の国内製造拠点整備を「危機管理投資」として推進しており、CDMO各社の設備投資(富士フイルム約600億円、AGC約500億円など)が装置・培地・試薬メーカーへの発注として波及しているためです。澁谷工業の2026年6月期は受注高が前期比10.4%増加しました。
Q. バイオものづくりとバイオ医薬品は、同じ「合成生物学・バイオ」分野なのに、なぜ扱いが違うのですか?
政府のロードマップは62の技術・製品を「商用化・量産化」「実証」「研究開発」の3段階で管理しており、バイオものづくりは技術・サプライチェーンが発展途上で価格競争力が課題とされる一方、バイオ医薬品・再生医療等製品等は技術基盤(iPS細胞・ADC等)がありながら国内製造実績が不足しているという、異なる課題を抱えているためです。
主な出典
内閣官房「日本成長戦略」(2026年7月21日閣議決定)/内閣官房「戦略17分野における『主要な製品・技術等』の官民投資ロードマップ」および同「参考資料」(2026年7月21日 日本成長戦略本部決定)/内閣府 創薬・先端医療ワーキンググループ(第1回、2026年1月21日)資料8-1 宮柱明日香構成員提出資料/日本製薬工業協会「製薬協会長記者会見」(2026年2月19日)/ミクスOnline「合成生物学・バイオWG初会合」記事(2026年2月4日)/澁谷工業「2026年6月期 決算説明資料」(2026年8月18日)/味の素コージンバイオ株式会社 会社情報・イプロスものづくり掲載の培地導入事例/関東化学株式会社「細胞培養用培地・調製液 製造サービス」ページ/富士フイルム「国内最大級のバイオ医薬品CDMO工場を富山県に開設」(2025年12月23日)/朝日新聞「バイオ医薬品づくりは分業型へ 富士フイルム、富山に国内初の拠点」(2025年12月23日)/AGC株式会社「横浜で国内バイオ医薬品CDMOの開発・製造能力拡大を決定」(2023年12月21日)/住友化学株式会社「当社子会社における再生・細胞医薬CDMO生産能力増強に関するお知らせ」(2025年8月5日)/経済産業省「再生・細胞医療・遺伝子治療製造設備投資支援事業費補助金」採択事業者一覧・公募要領(cdmo-hojo.jp)/薬事日報「【経産省】設備投資補助、13件を採択‐再生医療CDMO整備へ」(2025年7月18日)。
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